強風と自転車

潜在的なものも含め、自分にとっての敵はなるべく視界の中に入れておきたい」という気持ちがある。

 

敵が見えなくなってしまうと、今敵がどこにいるのかがわからなくなってしまうからである。目をつぶってしまうことは簡単だが、敵との距離を保つことができなくなる。最近見ていなかったアイツがいつの間にか近くにいた、なんてことになってしまっては厄介だ。

そして、敵というのは人間のことだ。人間そのもののこともあるし、ある人間の行動によって発生する私にとってのリスクや不利益ということもある。たいていの人は悪人ではないと思う。しかし悪人ではない人が時々悪意を持って行動することはあるし、悪人ではない人がよかれと思って実行したものが他人にとって害となることもある。それらを含め、とりあえず自分にとって不都合そうなものは監視対象にすることで自分を守ってきた。

 

色々な人間がいる。

 

・要望があるのに直接言わず毎度相手に気付かせる形で表明する者

・自分から縁を切ってきたはいいが切り方がヘタクソで中途半端にしか切れていない者

・いつまでも同じ問題で周りを心配させ慰めを得ようとするが問題の対処はしない者

・自分の知識をひけらかすためにクイズ形式の話を振り、即座に正解されると不機嫌になる者

・私に会えず寂しいと連絡を寄越す者

・正常な判断ができない精神状態の人間と契約をする者

・ひとりでいるなら寂しいに違いないと判断する者

・短期間の付き合いでしかなかった私の体調を心配してくる者

・声をかけてもらうのをいつまでも待っている者

・何度も音声通話にしろと伝えても履歴の残る文面でパートナーの愚痴を伝えてくる者

・自分自身の問題を年下の人間に甘え背負わせようとする者

・翌日に重要な用事があるのに夜更かしをして遅刻する者

・自分が不機嫌であることを隠さず周りに気を遣わせる者

エスカレーターを降りた所で立ち止まる者

・いい年こいてくだらない意地悪をする者

・まだ「Aが発生した」という情報しかないのに、勝手に原因を妄想してその対象を強く非難する者

・裏アカウントで呪詛を吐き続ける者

・生きていてくれただけでよかったと言ってくる者

・華やかな様子を自分から見せているのに本当は苦しいと訴える者

 

・それらに対して、とくに何もすることができない自分

 

潜在的なものも含め、自分にとっての敵はなるべく視界の中に入れておきたい」、そんなことをしていると、傍から見ていて「きっとロクな結果にならないだろう」と思われる事象が転がっている。

 

たとえば、とても強い風が吹いている日に支えのない所で自転車を止めている人を見た時のような、たとえば、飲み会の後に飲酒運転をしようとする者の車にみんなが乗り込んでいくのを見た時のような、たとえば、足の悪い動物が道路のど真ん中を横断している所にトラックが近づくのを見た時のような、そんな感覚になるような事象だ。

その結果が案の定悪い形であらわれた時、なんとも言えない感情になる。私はその問題に対処することはできない。権利や能力はない。真に無関係者なのである。

 

「相手を自分のことのように考えて強く共感しているからつらい」ということではない。その人の問題はその人の問題なのであって、私に許可されているのは見ることだけである。しかしなぜか無力感、脱力感に似た感覚があるのだ。

2022年は何がどうしたのか世界がかなり張り切っていて、そんな事象が例年より多い。今までのような監視塔暮らしをやめてしまって、いつ敵が来るか怯え続けながら目と耳を塞ぎ森の奥地で暮らしてえ...そんな甘えた発想が自分の中に出現した。実際の体力は「〇km走れたか」みたいな所で計測できるのに、精神的体力の計測方法が無いのは困ったものだ。技術は進歩しているのだから、自分のMP最大値と現在値が数値でわかる機械があってもいいではないか。ただ、もしそんな製品が出たとしても、自分はその性能を疑って購入に至らないんだろうな...と思ったら馬鹿すぎてあほらしくなったので、今日も寝汗でくせえから風呂入って飯を食う。

 

 

 

おわり

他者承認と鎮痛剤

自己肯定感が低く、しかもそのギャップを他者承認を得ることで賄っているタイプは、他人の言葉を鎮痛剤として消費しているように思われる。

 

こういった理由で元気が出ない、気分が落ち込む、そんな相手に接する機会は、人間と接している限り発生するものである。何かしらで苦しんでいる人が目の前にいるなら、まあ可能な範囲で助けて差し上げようということになるのは自然な流れだ。

私がその場に立ち会った場合、「話を聞くだけをする」を含めひとまず自分の考えられる限りの対応をする。力になれたらよし、なれなかったとして、私の対応が相手にとって不必要・不愉快なものだったとしたら、その相手は今後私に悩み相談をしないだろうと考えるからである。

 

そうしていると時々、私の脳裏に「暖簾に腕押し」「糠に釘」といった言葉が浮かぶことがある。こちらが考えて、言葉を尽くして、相手が「ありがとう」「元気が出た」といったようなリアクションをしてきたはずなのに、その後複数回にわたり同じような案件で悩み相談が入ってきた場合である。人がすぐ変わることは難しいとはいえ、事態は何かしら解決に向かわなかったのだろうか?目の前に問題があって悩みが発生するのだから、その問題について何も進展はなかったのだろうか?

 

そこからだんだんと、他人が言葉を尽くしたとしても、それが一時的な「鎮痛剤」にしかならないパターンもあるのではないかと考えるようになった。確かに痛みはおさまるかもしれない。しかしその場の痛みがおさまっているがために、根本的な解決に向けて積極的に動く必要もなくなり、気づくと同様の事案によって自己肯定感を地に落としてしまうのだ。

 

毎度こちらが真正面から向き合っても、結局何もよくならず、ただただこちらのスタミナが消費されている。RPGで出現する再生機能を持つ敵のそれである。普通に攻撃しても後から何もなかったかのように再生する敵。このままではこちらがもたない―――

この場合何ができるかというと、何も考えずに「つらかったね」「そのままのあなたでいい」「あなたがどうなっても私はあなたが大好き」等の言葉を返しておくことである。そうすればお互いにその場は凌げる。毎回手の込んだ料理を出している余裕がないなら、インスタント料理で済ませてしまえばいい。ただ、「どうなっても大好き」「ずっと大好き」といったような言葉はまったくおすすめできない。これは後々になって自分の首を絞めることになるからだ。

 

どうして何度も何度も同じ事由で思い悩んでしまうのに、その対策をしないのだろう?思い悩んでいつづけたいのだろうか?思い悩んでいるポーズを取ることで、優しい言葉が得られると学習しているのだろうか?

それは本人だけのせいではなく、周囲の人間がホイホイと鎮痛剤を与えてしまっているからなのではないか?

 

その場その場で鎮痛薬を利用する癖がついてしまうと、なかなか病院に行こうということにはならない。だが病の原因はずっとそこにあり続けるし、なんなら時間経過で悪化している。しかも自己肯定感をどうにかできるのは自分だけだ。医者も薬もない。自分で解決するしかない。それを邪魔しているのは、いま私が口にした慰めの言葉なのかもしれないのだ。

 

本当に相手のためを思うなら、優しい慰めの言葉が逆効果になるかもしれないことを考慮する必要がある。「良薬は口に苦し」いう言葉もある。とは言っても、これは飲む側だけの話ではない。薬を吐き出す側も口の中が胃液の味になっている。

 

インスタントで済ませれば罪悪感、手間をかければ無力感、何もしなければ相手からの失望、いまなら選べるクソ択3種類!もう全人類自分のゴミカスな所をありのままゴミカスと認めてくれないか?自分に対して過度に期待するのやめないか?いっそ人類から自己肯定感とかいう感覚が消えてくれればいいのだが―――

そんなことを思いながら、私は今日も業務時間の半分を睡眠に費やし、酒を飲み肉を食べLINEを未読無視し、配信を観てヘラヘラ笑っている。ゴミカスが開き直ってこういう状態になるのも、それはそれで望ましくはない。

 

 

 

おわり

要:理解ある彼くん

悩み相談に上手に対応できない。

 

「○○が嫌」「○○がつらい」「死にたい」みたいなことを言われた時、たいていの場合で適切な返答は「よしよし」「うんうん」「大変だったね😟」となっている。

 

私がここに至るまでには数々の質問と回答が必要である。

・どうして?

・どのような問題がある?

・そこであなたは何をした?

・(何もしなかった場合)なぜ何もしないのか?

・(何かした場合)結果はどうだったのか?なぜそうしようと思ったのか?

・他に対策はあるのか?

・○○は試したか?

・私にできること、してほしいことはあるか?

等のやりとりを経て「大変だったね😟」という言葉が出てくる。もはや面接である。何かを言われて即「大変だったね😟」と言ってしまうのは、むしろ不誠実だとすら感じる。何が大変だったのかを知らないのに、適当なことを言って相手を宥めようとしていると思うからだ。相手をまだ小さな子供と同じように扱うのと同じで、それは不当なことだと思う。

また、色々聞いているのは「その程度で被害者面してるのかよ」という意味ではない。人によって何を大変に感じるのかは違っているし、感じ方が違うからこそ、理解の手がかりを得るため議論...説明が必要なのだ。「生理的に無理だから」でもいい。生理的に無理なものは無理だ。「今ちょっと余裕ないから話しかけないで」これも助かる。

 

反対に、ただ何かについて「嫌」「つらい」と言う人が「なぜかは言えない」と言ってきた場合には混乱する。自分にしかわからない苦しみや痛みをただ他人にぶつけるだけの行為だと感じてしまう。赤ちゃんが泣いている場面に遭遇して、でも何が原因で泣いているのかわからねえ~となっているかのような気持ちになる。相手が絶対に解けない問題を提出し、しかも「不快」の態度を取って待つのはとても自分勝手なことだと感じてしまう。できることがない相手に対してただ心配の種だけを植え付け、事態は何も好転しない。全体としてマイナスにしかなっていないと思ってしまうのだ。「他人にわかるわけない」なんてmixiに書かれた日にはすべて終わりである。

この点で昔「ただ話を聞いてほしいだけだから聞いて」と母から明確に言われたことがある。私のスタンスは「相手の状況の理解」「状況打開のための行動を会話から模索」だったので嫌気がさしたのだろう。そこで初めて、過去の相談相手から薄々感じていた「今欲しかったのこれじゃねえんだよな」オーラの原因が判明したのである。

 

極端な話、「死にたい」と言われた後にロクな追加情報が出てこないと「それなら死んだら?」と言いそうになる。私も何回か自殺を検討したことがあるし、自殺は悪!殺人行為!等といった考えは持っていない(自殺に至らしめた過程を憂うことはある)。また、他人の命をどうこうする権利は私にはないため、「死なないで」と勝手な要求をすることはできない。その要求をするなら、それ相応の対価や保障を提案する必要があるのだ。可能なのは「死なないでほしいなあ~~できれば!私は悲しいな!」までであって、「死ぬな」はダメだ。生きろというギアスをかけられた某氏が壮絶な経験をしているのを見ると余計にそう思う。

ただそのような考えはさておき「それなら死んだら?」が不適切な返答だということは明らかで、また過去の蓄積から「あえて他人に『死にたい』と言う人の多くは『死にたいくらいにきつい状態』なのであって根本的に『死にたい』とは思っていない」ことを知っている。しかし軽率に「大変だったね😟」と言うのも不誠実―――その結果、相手の訴えに対し「......そうか.....................」しか言えなくなる。これでめでたくクソ会話の完成である。

 

何かおかしい。自分で相手のことを考えて導き出した答えが完全に間違っている。

 

「○○が嫌」「○○がつらい」「死にたい」みたいなことを言われた時、たいていの場合で適切な返答は「よしよし」「うんうん」「大変だったね😟」なのだ。私は間違っていた。この問題は算数だったのだ。1+1が2であるように、答えが決まっているものだったのだ。いつもお世話になっております。お世話になったどころか会ったことすらねえ相手に謎の言葉を送るのと同じだ。これがわかって以来、気づいた時には余計なことを言わず、相手の言葉に対して「大変だったね」と出力できるようになった。

 

「大変だったね😐」(あ~~~すいません思考停止しているわけではないんですけども私から言って差し上げられることがもう無くて~~~てかなんでこの人今こうなってんの?そういう状況ならあれは調べてみたかな?ああ~~~違うんです大変だったね!うわあああ~~~~~~)

これでいいのだ。

 

ネット上で散見される理解ある彼くんは、いかにして相手を理解しているんだろう。理解ある彼くんは本当に相手のことを理解できているんだろうか。理解できているなら、その方法を教えてほしい。どなたかこの中に理解ある彼くんはいらっしゃいませんか?理解ある彼くんが理解ある彼くんを自称するとかなり気色悪いが、理解教本を出したらそこそこ売れると思う。少なくとも私が1冊買う。

 

 

 

おわり

社会的脱糞

軽率に感情的な態度を示すことは愚かな行為だ。

この考えが、気づいた時にはもう自分の中にあった。

 

これは、学校や家庭内で他人を眺めているうちに自然と身についてしまった結論だと思われる。感情的になると誤った決定をしてしまうリスクが高くなる。特に「怒る」というのがよくない。職場で人に怒るということがいかにマイナスな結果を生むのかという話は、メディアや職場研修等で耳にすると思う。

 

私は現在リモートワークで作業をしているが、やりとりをする関係者の中でひとり「すぐキレるので注意」と周知されている人がいる。

その人はメールの文面でも「私は今怒っています!!!!」という感情を丸出しにしてくる。ここまでの人はなかなか見たことがなく、傍から見ていてかなり面食らったのを覚えている。しかも原因がその人の勘違いだったり確認不足だったりするので、返信の文面も気を遣う必要がある。ここで既に余計なコストが生まれている。また、もし他人の知識不足、誤認で発生した問題なら、それを教えてあげればいい。自分と同じ知識がある体で話されても、入社数十年の人間に敵うとは到底思えないからである。

 

怒ることは、その人自身の判断を鈍らせるだけでなく、他者の怒りを誘発し、また他者を委縮させて思考や行動に制限をかけてしまう。怒るより先にまず、なぜ現状がこうなっているのかを考えないと現状が変わらないし、将来的に自分を怒らせる状況を減らすこともできない。感情の発生自体は仕方のないことだが、それを発露する前にやることはいくらでもあるはずだ。

 

ここで最悪なのは、日常的な私の態度が他人から「怒っている」ように見えていることである。

二十数年生きてきて、ただ喋っているだけなのに「怒ってる?」と何度言われたかわからない。それは後から振り返れば「人によれば怒ってもおかしくなさそうな状況」な場合もあるが、「まったく怒るタイミングではない状況」の場合も少なくない。後者では「なんで怒ってるの?」と相手は聞いてくるが、そもそもこちらは怒っていないので「なんで怒ってると思ったの?」という状態になり、ただただ場の空気が不味くなっていくことになる。

 

10代の頃は、「怒ってる?」という言葉を「何カッカしちゃってんの?笑」という意味に変換していたので、

 私「縺翫?繧医≧縺斐*縺?∪縺吶?よ怙霑大?螳峨d縺ー縺上↑縺?▲縺吶°?」

 相手「え、怒ってる?」

 私(は?)←ここで怒り始める

となることが多かった。

 

いや、もしかしたら本当に「何カッカしちゃってんの?笑」という意味だったかもしれない。私の内心がどうであれ、コミュニケーションは相手がどう受け取ったかに依存しているので落ち度はこちらにある。今でこそ「まただよ」と思うだけだが、当時は若く「何を勘違いしてんだテメーは」という気持ちでいた。

過去、学校生活で私と親しくなった数少ない友人がことごとく強引な陽キャ傾向であるのも、私の態度を怒っていると思わない、あるいは怒っていたとしても考慮していなかったからだろう。意識的な笑顔、にこやかな態度を心がけるようにしたこともあったが、それは私にとって別人格を作り出すことに等しく、気づかないうちにかなりの精神的負荷がかかっていたので諦めざるをえなかった。

 

私は「段階を踏まずに初手で怒るのは感情が制御できていない」「基本的に怒っても結果はゼロかマイナスにしかならない」「他人に対して怒りの態度を示していい権利が十分にあってはじめて怒ることを許される」等の偏った思想を持っていて、それに縛られているため相手に怒ることは滅多にない。

ということを相手は知らない。

 

ここ最近、色々なシーンで「怒ってる」判定を受けることがいくつかあって、いささか自分にうんざりしてきた。もし自分が作った不味い空気を1万円でチャラにできるなら喜んで支払いたいと思った。成人してしばらく経っているのに、自分が出したクソの処理もできないとはなんと情けないことだろうか。試しに目の前の仕事用PCに向かって笑いかけてみたが、不気味に引き攣った口角を上げただけの顔が黒い画面に映っただけだった。

 

仕事しろよ

 

 

 

おわり

あいまいもこ

私は曖昧なものが苦手だ。

 

先日、数年ぶりに両親と会って食事をする機会があった。

帰宅してから、なんとなく食事中の会話を振り返っているうち、自分が「今ここでハッキリさせたい」という態度を取ることが他人より多いと改めて思わされた。

 

たとえば「みんなでAをやってみよう」という話題が持ち上がった時、Aをやったらどうなるのか?やるならいつ?いくらかかる?何が必要?誰がやる?本当にやるのか?という問題が噴出する。

 

たとえば「このあとちょっとね...」と言われた時、ちょっとって何?用事?用事は何?どこで誰と?言いたくないならつまりこの場は何時に終わるってこと?という問題が噴出する。

 

たとえば「今度これやっておきます」と言われた時、どうやって?誰が?いつまでにやるつもりでいる?どれくらいかかりそう?という問題が噴出する。

 

たとえば「気になってる人がいて」と言われた時、誰?どこが?私の知り合いか?私とそいつはもう関わらない方がいいか?どういうやつなんだ?という問題が噴出する。

 

私にとって、曖昧な状態は「一刻も早く脱しなければならない危険な状態」である。曖昧ということはつまり、すべきことが明らかになっていないまま保留とされているのであって、準備不足、時間切れ、誤った選択、機会損失といった「失敗」を誘発するからである。もちろんこれは自分自身だけでなく、他人にも及ぶものである。そのために、曖昧が発生し次第対処し、身辺の曖昧は必要最小限の数に抑えておく必要がある。

 

この態度をもとに生まれる私の発言によって、相手は急かされていることが多い。私からすると「悠長」なのだが、相手からは「何をそんなにマジになってるの?」というリアクションが返ってくるのでわかる。

別に状況に真剣に接しているわけではないつもりだし、無駄な時間を過ごしたくないという気持ちもない(無駄な時間を過ごしたくない人間は、マインクラフトで延々とブランチマイニングをやったり、スマートフォンを眺めながらベッドに数時間横たわったりしない)。ただ、曖昧が存在することだけが望ましくないのである。

 

しかし、日常の中で曖昧を削ぎ落としていくことは、そのまま人間関係や会話の中に存在するある種の「遊び」の幅を狭めていることなのではないかという懸念が発生した。

学校等で行われる恋愛系の話で「付き合う前の曖昧な状態が一番楽しい」というものは一度は聞くだろう。そうした曖昧、遊び、ゆとり、わからない状態そのものが楽しいとされるのだ。私が曖昧を潰して回ろうとすることによって、結果的に他人の楽しみを奪っているのではないか。私の思った通りに進む会話は「そんなの職場だけで十分だ」とされる性質のものではなかったか。

 

「曖昧モコ」というVTuberがいても不思議ではないくらい、「曖昧模糊」という言葉の発音自体はかわいらしい。しかし曖昧は日々私の前に立ちはだかる。現状持ちうる対抗手段は「我慢」しかないが、頭髪が失われる頃には何か別の手段が見つかると嬉しい。

 

 

 

おわり

official卑下男dism

これはよくないが、基本的に人から褒められたら9割嘘だと思っている。

人が人を褒めるシーンは色々あるが、「褒めようと思ったから褒める」のほかに「別にそう思っていないけど褒めるシーンだから褒める」「相手からの印象をよくしようとして褒める」「ここですごくないと言ったら会話が変になるから褒める」「相手を油断させるために褒める」というように、褒めたくて褒めているわけではないシーンがいくらでも考えられるからである。

 

 

私は人の言葉の「嘘を嘘と見抜く」能力がおそらく一般水準より低い。言葉を言葉通り受け取りがちということである。そういう人間が、褒められた後に「褒められちゃった😄」とニコニコしているだけでは足元を掬われてしまう。ひとまず褒められたら一旦「嘘」と置いておくことで、自分を守っているのである。

 

いつからか、そもそも自分が褒められる可能性のあることをしなければいいのではないか?と考えるようになった。発端となっている褒められシーン自体を減らせばいいのだ。私は、自分と自分のプライドを守るために「私なんか」と思うようになった。褒められたら「それほどでも」「運がよかっただけ」と謙遜し、否定した。できるだけ目立たない様に振舞うことを心掛けた。しかしこれが実現不可能だった。

 

高校生になって、日々の成績の積み上げによって受験勉強をスキップできる「指定校推薦」というものがあると知り、年間の試験で常に高得点を取るように勉強していた。進学校でも何でもない偏差値50台のゆるい高校だったので、無理ゲーではなかった。

その結果が3年になってあらわれた。指定校推薦を希望する生徒が集められ、対象の大学・学部がリストになって配られた。これまで積み上げてきた得点によって、私はリストの上から下までどれでも選ぶことができるらしかった。

そこから、まったく面識のない生徒が私の動向を気にするようになった。私は他クラスの生徒とほとんど関わりを持たなかったので、直接ではなく、私と同じクラスの第三者を通して進路を聞かれるようになった。普段はマンガの話しかしてこない奴が突然進路を聞いてきたら不気味に思うだろう。なんでこんなことをさせるんだ、直接聞いてこい...と不快な気持ちになったのを覚えている。

 

それと同時に、「今自分は他者の人生に阻害要因として存在している」ということを強く感じるようになった。校内で目立った活動もせず、他者にひとつも攻撃を加えていないのに、邪魔者、敵になってしまったのである。会話の中で、自分の成績について「すごい」と褒められる度に「まさかこいつも"私が敵"なのか?」という疑念が付きまとい始めた。

 

結局他に希望する大学・学部ができたため、指定校推薦を使わず通常の受験をするという選択をしたが、これも誰かと枠を奪い合う状況に変わりはない。ただ、顔の見える範囲の相手かそうでないかというだけで、感じる圧迫感は非常に異なった。

通常の受験なら「結果がすべて」と思えるが、枠を奪い合う相手がすぐそこにいる場で「1年から試験の結果を積んできたかどうかでしかない。お前がもっと頑張ればよかっただけ」と思うことはできなかった。他人の人生の邪魔をする立場にいることに伴う嫉妬、憎悪、報復を強く恐れていたからだ。決して「申し訳ない」という感情が大きかったわけではない。返ってくるとも限らない負のリアクションを勝手に想定して恐れていたのである。

 

また、「私なんか」と自分を卑下していた私が「自分より下の人間」を作ってしまっている事実も都合が悪かった。あらかじめ下に下げていた私がここにいるなら、その下に位置してしまった他人はどうなってしまうのだろう?

自分を守るために卑下する思考や言葉で、そのまま他人を攻撃できてしまうのではないか?

たとえば、もし本当に「自分は本当に●●が下手だなあ」と思っている所に、その自分より下手な人間があらわれる可能性はゼロではない。そこで自分をゴミカスに言ってしまったら、「じゃあそのゴミカスより下手な私はどうなってしまうのだ?」という思いを抱かせてしまうことになる。これはむやみに不快の種をバラまくことであり、非常によろしくないことだ。

 

 

だとか、他の諸々の経験から、自分を積極的に卑下することは控えるようになった。また、褒められても謙遜や否定は(なるべく)せず一旦そのまま受け取った感じを出すように心掛けている。

 

自分を評価する時であっても、主観だけではなく、具体的な数字から判断することが肝要である。

私は真に肥満である。

 

 

 

おわり

それはそれ

あなたの見た目が好みだからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたの飼っている猫がかわいいからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたの話が面白いからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたの作品が素敵だからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたと似たアイデンティティを持っているからといってあなたと同じではない。

あなたの意見に反対したからといってあなたを否定するわけではない。

あなたの意見に賛成したからといってあなたの味方とは限らない。

あなたと同じ敵がいるからといってあなたの味方とは限らない。

あなたのことが好きだからといってあなたの作品が好きになるとは限らない。

あなたが何もしなくなったからといってあなたの価値がなくなったわけではない。

 

 

 

おわり