好きと崇拝

私が普段、意識的に避けていることとして「好き」がある。

自分の中で好きだと思う感情を検知した場合、速やかに抑制または排除を行う。

他人の「好き」を否定するつもりはない。ただ、自分にとっての「好き」は取り扱いが非常に難しいものなのである。

 

子供の頃から今まで、私は非常に移り気な人間であった。

子供の頃の私にとって、友人は必ずしも永続的な存在ではなかった。どちらかと言えば娯楽と同じで、その人を自分が楽しみつくしたと感じると次のグループを求めに行く方だった。

低学年の頃、珍しく転校生が来た時、クラスで一番仲が良くなったのは私だった。私にとってその転校生はある意味で、新作ハードのような存在だった。その子は私が飽きる前に、また両親の転勤か何かで転校していってしまった。

 

移り気だけならまだいいのだが、私はそれを「好き」だと思うと徹底的に「好き」になってしまう子供だった。多少の不愉快な言動や不正行為(万引き等)は無かったことにして、ただただ毎日、対象のことを考え、夕飯時には親に話し、対象と何をして遊ぼうかと考える。一点にすべてのおともだちエネルギーを集中させてしまうのである。

そうなると、今まで仲良く遊んでいた友人のことは目に入らなくなる。遊びの誘いも断りまくる。いい迷惑である。

神を崇拝しているような状態になり、ポジティブな面ばかりを見ようとし、周りのモブはまったく見えなくなる。私本人にとっては楽しいだけの時間のはずだった。

 

しかし最悪なことに、私に残っている1ミリの理性が突然その神を殺してしまう。対象のふとした言動によって、今まで好き好き大好き最高~~~と思っていた気持ちがガン萎えし、今までこの神を信じてきた私は何だったのかという絶望に苛まれるのだ。

 

印象に残っているのは、高校時代にいたある神である。仮にBとする。

Bとは高校2年時に同じクラスになったが、Bは陽キャ陽キャ、バスケ部に所属し夕方はアルバイト、将来の夢は美容師、馬鹿みてーなサイズのピアス(校則違反)を付けて登校するような人間だった。当然別世界の人間としてほとんど喋ったことはなかった。

ある時Bが「〇〇のテストの成績がいいと聞いた。自分は赤点がヤバいので勉強を教えてほしい」と話しかけてきた。驚いたが少なくともその瞬間に不愉快な人間ではなかったので了承し、テストの範囲を教えたり図書館に一緒に行ったりした(図書館では結局まったく関係ない恐竜の本とかを持ち寄って読んだ)。勉強を教えているうちに仲良くなり、半ば無理矢理連れていかれた不慣れなカラオケでは今時の高校生が聴いていると思われる曲の洪水を浴び、自分はまったく触れることのなかった世界の一端を知りカルチャーショックを受けたことを覚えている。私はフットワークが非常に重いが、Bの強引さがそれを上回ったので、Bを含め意味もなく色々な所(当社比)で遊ぶようになった。

 

ある時、カラオケでBが「ヴィーナスとジーザス」をリストに入れたので、やくしまるえつこ、いいよねという話になった。Bは歌い始める前にこう言った。

やくしまるえつこの曲を歌うのは、可愛い声の女の子じゃないと許せない」

 

 

 

いや、お前の声、割と汚い方だよな?

 

 

 

 

そして神は死んだ。

人を勝手に崇拝し神としていたくせに、その神が1つ不合理なことを言った瞬間、神が神でないことが判明してしまい、建設中だった神像は真横から4トントラックが突撃して破壊された。また神が死んでしまった。久しぶりの神だったがやはりだめだった...この経験は私に大きな喪失感をもたらした。いい塩梅の関係性をなぜ築くことができないのか。こうならないように注意していてもいつの間にかそうなっているのだ。どうしようもなく、このような性質なのだからもう仕方がないことなのか。

 

もうこんな思いは二度としたくない。そこから自分の中に「好き」が生まれていないかということを注視するようになった。書きながら自分で思い返しても苦笑しか出ない。

まあこのような決意をしても結局、大学生時代のアルバイト先や新卒入社先の先輩等で小さいながらも神像を建設することになるのだが...

 

 

 

おわり