あいまいもこ

私は曖昧なものが苦手だ。

 

先日、数年ぶりに両親と会って食事をする機会があった。

帰宅してから、なんとなく食事中の会話を振り返っているうち、自分が「今ここでハッキリさせたい」という態度を取ることが他人より多いと改めて思わされた。

 

たとえば「みんなでAをやってみよう」という話題が持ち上がった時、Aをやったらどうなるのか?やるならいつ?いくらかかる?何が必要?誰がやる?本当にやるのか?という問題が噴出する。

 

たとえば「このあとちょっとね...」と言われた時、ちょっとって何?用事?用事は何?どこで誰と?言いたくないならつまりこの場は何時に終わるってこと?という問題が噴出する。

 

たとえば「今度これやっておきます」と言われた時、どうやって?誰が?いつまでにやるつもりでいる?どれくらいかかりそう?という問題が噴出する。

 

たとえば「気になってる人がいて」と言われた時、誰?どこが?私の知り合いか?私とそいつはもう関わらない方がいいか?どういうやつなんだ?という問題が噴出する。

 

私にとって、曖昧な状態は「一刻も早く脱しなければならない危険な状態」である。曖昧ということはつまり、すべきことが明らかになっていないまま保留とされているのであって、準備不足、時間切れ、誤った選択、機会損失といった「失敗」を誘発するからである。もちろんこれは自分自身だけでなく、他人にも及ぶものである。そのために、曖昧が発生し次第対処し、身辺の曖昧は必要最小限の数に抑えておく必要がある。

 

この態度をもとに生まれる私の発言によって、相手は急かされていることが多い。私からすると「悠長」なのだが、相手からは「何をそんなにマジになってるの?」というリアクションが返ってくるのでわかる。

別に状況に真剣に接しているわけではないつもりだし、無駄な時間を過ごしたくないという気持ちもない(無駄な時間を過ごしたくない人間は、マインクラフトで延々とブランチマイニングをやったり、スマートフォンを眺めながらベッドに数時間横たわったりしない)。ただ、曖昧が存在することだけが望ましくないのである。

 

しかし、日常の中で曖昧を削ぎ落としていくことは、そのまま人間関係や会話の中に存在するある種の「遊び」の幅を狭めていることなのではないかという懸念が発生した。

学校等で行われる恋愛系の話で「付き合う前の曖昧な状態が一番楽しい」というものは一度は聞くだろう。そうした曖昧、遊び、ゆとり、わからない状態そのものが楽しいとされるのだ。私が曖昧を潰して回ろうとすることによって、結果的に他人の楽しみを奪っているのではないか。私の思った通りに進む会話は「そんなの職場だけで十分だ」とされる性質のものではなかったか。

 

「曖昧モコ」というVTuberがいても不思議ではないくらい、「曖昧模糊」という言葉の発音自体はかわいらしい。しかし曖昧は日々私の前に立ちはだかる。現状持ちうる対抗手段は「我慢」しかないが、頭髪が失われる頃には何か別の手段が見つかると嬉しい。

 

 

 

おわり

official卑下男dism

これはよくないが、基本的に人から褒められたら9割嘘だと思っている。

人が人を褒めるシーンは色々あるが、「褒めようと思ったから褒める」のほかに「別にそう思っていないけど褒めるシーンだから褒める」「相手からの印象をよくしようとして褒める」「ここですごくないと言ったら会話が変になるから褒める」「相手を油断させるために褒める」というように、褒めたくて褒めているわけではないシーンがいくらでも考えられるからである。

 

 

私は人の言葉の「嘘を嘘と見抜く」能力がおそらく一般水準より低い。言葉を言葉通り受け取りがちということである。そういう人間が、褒められた後に「褒められちゃった😄」とニコニコしているだけでは足元を掬われてしまう。ひとまず褒められたら一旦「嘘」と置いておくことで、自分を守っているのである。

 

いつからか、そもそも自分が褒められる可能性のあることをしなければいいのではないか?と考えるようになった。発端となっている褒められシーン自体を減らせばいいのだ。私は、自分と自分のプライドを守るために「私なんか」と思うようになった。褒められたら「それほどでも」「運がよかっただけ」と謙遜し、否定した。できるだけ目立たない様に振舞うことを心掛けた。しかしこれが実現不可能だった。

 

高校生になって、日々の成績の積み上げによって受験勉強をスキップできる「指定校推薦」というものがあると知り、年間の試験で常に高得点を取るように勉強していた。進学校でも何でもない偏差値50台のゆるい高校だったので、無理ゲーではなかった。

その結果が3年になってあらわれた。指定校推薦を希望する生徒が集められ、対象の大学・学部がリストになって配られた。これまで積み上げてきた得点によって、私はリストの上から下までどれでも選ぶことができるらしかった。

そこから、まったく面識のない生徒が私の動向を気にするようになった。私は他クラスの生徒とほとんど関わりを持たなかったので、直接ではなく、私と同じクラスの第三者を通して進路を聞かれるようになった。普段はマンガの話しかしてこない奴が突然進路を聞いてきたら不気味に思うだろう。なんでこんなことをさせるんだ、直接聞いてこい...と不快な気持ちになったのを覚えている。

 

それと同時に、「今自分は他者の人生に阻害要因として存在している」ということを強く感じるようになった。校内で目立った活動もせず、他者にひとつも攻撃を加えていないのに、邪魔者、敵になってしまったのである。会話の中で、自分の成績について「すごい」と褒められる度に「まさかこいつも"私が敵"なのか?」という疑念が付きまとい始めた。

 

結局他に希望する大学・学部ができたため、指定校推薦を使わず通常の受験をするという選択をしたが、これも誰かと枠を奪い合う状況に変わりはない。ただ、顔の見える範囲の相手かそうでないかというだけで、感じる圧迫感は非常に異なった。

通常の受験なら「結果がすべて」と思えるが、枠を奪い合う相手がすぐそこにいる場で「1年から試験の結果を積んできたかどうかでしかない。お前がもっと頑張ればよかっただけ」と思うことはできなかった。他人の人生の邪魔をする立場にいることに伴う嫉妬、憎悪、報復を強く恐れていたからだ。決して「申し訳ない」という感情が大きかったわけではない。返ってくるとも限らない負のリアクションを勝手に想定して恐れていたのである。

 

また、「私なんか」と自分を卑下していた私が「自分より下の人間」を作ってしまっている事実も都合が悪かった。あらかじめ下に下げていた私がここにいるなら、その下に位置してしまった他人はどうなってしまうのだろう?

自分を守るために卑下する思考や言葉で、そのまま他人を攻撃できてしまうのではないか?

たとえば、もし本当に「自分は本当に●●が下手だなあ」と思っている所に、その自分より下手な人間があらわれる可能性はゼロではない。そこで自分をゴミカスに言ってしまったら、「じゃあそのゴミカスより下手な私はどうなってしまうのだ?」という思いを抱かせてしまうことになる。これはむやみに不快の種をバラまくことであり、非常によろしくないことだ。

 

 

だとか、他の諸々の経験から、自分を積極的に卑下することは控えるようになった。また、褒められても謙遜や否定は(なるべく)せず一旦そのまま受け取った感じを出すように心掛けている。

 

自分を評価する時であっても、主観だけではなく、具体的な数字から判断することが肝要である。

私は真に肥満である。

 

 

 

おわり

それはそれ

あなたの見た目が好みだからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたの飼っている猫がかわいいからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたの話が面白いからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたの作品が素敵だからといってあなたを肯定するわけではない。

あなたと似たアイデンティティを持っているからといってあなたと同じではない。

あなたの意見に反対したからといってあなたを否定するわけではない。

あなたの意見に賛成したからといってあなたの味方とは限らない。

あなたと同じ敵がいるからといってあなたの味方とは限らない。

あなたのことが好きだからといってあなたの作品が好きになるとは限らない。

あなたが何もしなくなったからといってあなたの価値がなくなったわけではない。

 

 

 

おわり

答えは沈黙

何かを「好き」だと明言することには抵抗がある。

 

同じものを好きな者同士が集まっていくつものコミュニティが形成されている。

知らない人と交流を持とうとするとき、「好きな食べ物は何ですか?」という所からきっかけを作ることも多いだろう。そうして頻繁に行われるシーンで毎回躊躇っているのは効率が悪すぎるのだが、どうしても気楽に「好き」を表明することができない。

 

理由は主に以下の点が面倒くさいからである。

  1. 「Aを好きな奴は好き」という反応
  2. 「Aを好きな奴が嫌い」という反応
  3. 「Aを好きな奴はこうあるべき」という反応
  4. 「私のことが好き(そう)」ということをAに知られてしまう
  5. 「Aを好きと言っているがBは好きではないのか?」という反応

 

①「Aを好きな奴は好き」という反応

面倒くさい。

自分が好きなものAを好きな人がいた時、それだけで一定の好感、親近感を覚えるのは不自然なことではない。多くの人は、好きなものを誰かと共有するのを好むようだし、語り合う相手を求めているらしい。

しかし、Aを好きでも、Aを好きなBを好きになるとは限らないのではないか?

実際、好きなものが非常に似通っている人間同士でも不和が発生している状態は珍しくないように見える。「好きなものが同じ」なだけで無邪気な親しみを向けられると、そういったことを思い出してしまい、ちょっと待ってほしい...という気持ちになる。なんなら、私の態度が「一般的にAを好きな人間の態度」とかけ離れていることで失望する可能性だってあるというのに。

 

②「Aを好きな奴が嫌い」という反応

面倒くさい。

たとえば「自分はAのファンに嫌な思いをさせられた経験がある。だからAのファンは嫌いだ」という感情は奇怪な感覚ではない。本当は「Aのファンがすべてそうとは限らない」とわかっていても、嫌悪感が反応として出てしまうこともあると思う。人間の頭は接する一人ひとりをまっさらな状態から理解しようとするにはキャパが足りない。ある程度枠組みを作ってやっていかなければならないのだ。

時々だが、特定の枠組みに入った人に対して非常に攻撃的になったり、拒否反応を示したりする人がいる。その枠組みに自分が入ってしまうことがとても面倒だ。少なくとも私はその人に関わったり、害そうとしたりといった気持ちはないからである。

逆に、「自分が一番Aを好きである」「自分だけがAを好きである」、だからお前は嫌いだという人それはそれで怖いので黙っておく。

 

③「Aを好きな奴はこうあるべき」という反応

面倒くさい。

一部のA過激派、A信者からの干渉を避けたい。Aが決めた何かならまだしも、ただAを好きなだけの人間が、他の人間の態度に過度に干渉する資格はないと思うからである。

自分が直接何かを言われたわけではないが、言っている人を見たことはある。その人に見つかってしまうと面倒くさいし、そんな人に限って発信力だけが人一倍あったりするのだ(大いなる偏見)。

 

④「私のことが好き(そう)」ということをAに知られてしまう

面倒くさい。

人間は、自分のことを好きな人間に対して比較的よい印象を抱く。悪い気はしないというやつだ。しかし、その「好き」という感情はいつまで続くだろうか?

ある店である料理を好んで食べ続けていたとする。その味を一生好きでいられる保証はない。年月によって自分の味覚が変わったり、忙しくなって店に行けないうちに味を忘れてしまったり、店から出てくる味自体が変わったりする。これは人間にも当てはめることができると思う。

しかし、そこで「自分を好きと言っていた人が最近何も言ってくれていない」「もう自分のことは嫌いになってしまったのか?」「好きと言ってくれていたのは嘘?」というような反応をする人がいる。こうなると、その人にとっては裏切りであり、余計な負の感情を生み出すことになる。「好き」と伝わっていることでプラスになっていた関係が、「好き」がなくなったことでゼロではなくマイナスになる事態は避けたい。

 

⑤「Aを好きと言っているがBは好きではないのか?」という反応

面倒臭い。

というか、それで何も問題はないはずである。でもこれは仕方がないことで、色々なものに対して好き好き言っていれば、消去法で「好きではないもの」が浮かび上がってくる。5人の友達グループで、3人に対して明確に「好き」と言っている人が、間接的に残りの1人は「別にそこまででもない」と表明しているのと同じである。

「別に好きなものすべてに対して好きと言うわけではない」という理屈はごもっともだが、「好き」と明言することで生まれる扱いの差は確実に存在する。

その差が真実であれ誤解であれ、発生した差について弁解するのが面倒くさいし、難しい。

 

 

そんな色々があってなるべく何かを「好き」と言わない。

今言っても流石にどこにも引っかからないだろうと思った場合や、何かを観ていて「ここすき」と言うことはある。これは自分でも明確に線引きしているわけではないので適当な匙加減だが、つまりは「自分の好きを明言することで他人の感情を刺激したくない」ということだ。いつからこんなことを考えるようになったんだろうか。とりあえずいい加減HUNTER×HUNTERを観ろ。

 

 

 

おわり

好きと崇拝

私が普段、意識的に避けていることとして「好き」がある。

自分の中で好きだと思う感情を検知した場合、速やかに抑制または排除を行う。

他人の「好き」を否定するつもりはない。ただ、自分にとっての「好き」は取り扱いが非常に難しいものなのである。

 

子供の頃から今まで、私は非常に移り気な人間であった。

子供の頃の私にとって、友人は必ずしも永続的な存在ではなかった。どちらかと言えば娯楽と同じで、その人を自分が楽しみつくしたと感じると次のグループを求めに行く方だった。

低学年の頃、珍しく転校生が来た時、クラスで一番仲が良くなったのは私だった。私にとってその転校生はある意味で、新作ハードのような存在だった。その子は私が飽きる前に、また両親の転勤か何かで転校していってしまった。

 

移り気だけならまだいいのだが、私はそれを「好き」だと思うと徹底的に「好き」になってしまう子供だった。多少の不愉快な言動や不正行為(万引き等)は無かったことにして、ただただ毎日、対象のことを考え、夕飯時には親に話し、対象と何をして遊ぼうかと考える。一点にすべてのおともだちエネルギーを集中させてしまうのである。

そうなると、今まで仲良く遊んでいた友人のことは目に入らなくなる。遊びの誘いも断りまくる。いい迷惑である。

神を崇拝しているような状態になり、ポジティブな面ばかりを見ようとし、周りのモブはまったく見えなくなる。私本人にとっては楽しいだけの時間のはずだった。

 

しかし最悪なことに、私に残っている1ミリの理性が突然その神を殺してしまう。対象のふとした言動によって、今まで好き好き大好き最高~~~と思っていた気持ちがガン萎えし、今までこの神を信じてきた私は何だったのかという絶望に苛まれるのだ。

 

印象に残っているのは、高校時代にいたある神である。仮にBとする。

Bとは高校2年時に同じクラスになったが、Bは陽キャ陽キャ、バスケ部に所属し夕方はアルバイト、将来の夢は美容師、馬鹿みてーなサイズのピアス(校則違反)を付けて登校するような人間だった。当然別世界の人間としてほとんど喋ったことはなかった。

ある時Bが「〇〇のテストの成績がいいと聞いた。自分は赤点がヤバいので勉強を教えてほしい」と話しかけてきた。驚いたが少なくともその瞬間に不愉快な人間ではなかったので了承し、テストの範囲を教えたり図書館に一緒に行ったりした(図書館では結局まったく関係ない恐竜の本とかを持ち寄って読んだ)。勉強を教えているうちに仲良くなり、半ば無理矢理連れていかれた不慣れなカラオケでは今時の高校生が聴いていると思われる曲の洪水を浴び、自分はまったく触れることのなかった世界の一端を知りカルチャーショックを受けたことを覚えている。私はフットワークが非常に重いが、Bの強引さがそれを上回ったので、Bを含め意味もなく色々な所(当社比)で遊ぶようになった。

 

ある時、カラオケでBが「ヴィーナスとジーザス」をリストに入れたので、やくしまるえつこ、いいよねという話になった。Bは歌い始める前にこう言った。

やくしまるえつこの曲を歌うのは、可愛い声の女の子じゃないと許せない」

 

 

 

いや、お前の声、割と汚い方だよな?

 

 

 

 

そして神は死んだ。

人を勝手に崇拝し神としていたくせに、その神が1つ不合理なことを言った瞬間、神が神でないことが判明してしまい、建設中だった神像は真横から4トントラックが突撃して破壊された。また神が死んでしまった。久しぶりの神だったがやはりだめだった...この経験は私に大きな喪失感をもたらした。いい塩梅の関係性をなぜ築くことができないのか。こうならないように注意していてもいつの間にかそうなっているのだ。どうしようもなく、このような性質なのだからもう仕方がないことなのか。

 

もうこんな思いは二度としたくない。そこから自分の中に「好き」が生まれていないかということを注視するようになった。書きながら自分で思い返しても苦笑しか出ない。

まあこのような決意をしても結局、大学生時代のアルバイト先や新卒入社先の先輩等で小さいながらも神像を建設することになるのだが...

 

 

 

おわり

Aのこと

私には明確に「友人」と呼べる人間が2人いる。

 

そのうちAは、小学校1年時に同じクラスだったので知り合ってかれこれ20年になる。
友人になったのは、ただ家が近いというだけの偶然だった。

近所の娯楽施設もあまりなかったので、ひとつの家に入り浸ってひたすら64をやっていたと思う。


私が社会人になってから体調を崩したのもあり、今となってはもう数年も連絡を取っていないし連絡先もわからないが、
今も、もしそいつにクソ不幸があったら助けてやりたいという気持ちが少なくとも1mmはわくので、私にとっては友人なのだ。

 

今となっては時すでに時間切れだが、そいつに対して私はごく自然に振舞いすぎていたのをたまに悔やむことがある。Aの家庭は母子家庭だった。

 

Aはよくちょっとしたお小遣いを持っていたし、家に帰って「お手伝いをしなさい」という親もいなかった。
そんなAが私は羨ましかった。

 

父親は死別したわけではなく、たまにAに会いに来てくれて、しかもお金をくれるということだった。
そんなAが私は羨ましかった。

 

実際の具体的な記憶はほとんど消えているが、Aが羨ましいという気持ちを何も憚らずに口にしていた。
そんな過去の自分が時々思い出されてはとても恥ずかしくなる。
Aはまったくそんなことを気にしていないとわかっているのに、後ろめたい気持ちが消えないのだ。

 

高校からは、偏差値だけを見れば私が上の学校にいたが、いつも言い負かされるのは私の方だった。


Aはいわゆる"自頭のいい奴"だった。
しかも顔のつくりもよく、運動ができて、気の回る奴だったのでとてもモテた。
私は自分のことしか考えていなかったので、そいつに恋人ができる度に、
「どうか私と遊びすぎることを咎めない恋人であってくれ」と思っていた。
(実際、一時期ふたりで三國無双にハマりすぎていた時に咎められることがあった)

 

これはおそらくよくないのだがAは交友関係が広いのでよく浮気もしていた。
私との付き合いにはまったく関係がないので(私に友人がいなさすぎるために浮気相手が共通の友人という可能性がない)、何も困ることはなかった。


しかし私はその軽薄さを「家庭環境が影響している」のだと思ってしまった。そんな偏見をどこかで定着させてしまっていた自分が嫌だった。
私はただAと酒を飲みながらエクストリームバーサスをやっているのに茶々を入れたり、三國無双をしたりしたいだけだったのに。

 

Aは私と真逆の人間だった。
Aはとにかく一日の予定に空白があることを嫌った。
寝ている時でさえひとりじゃないことが多いAの生活は、私には想像しがたいものだった。


Aと10年以上も親しくしているのにAのことを何もわかってやれていない、気遣ってやれていない、そんな後ろめたさが私を支配するようになった。
私は私に対してAの友人面をすることが難しくなった。

 

そんな頃から、私はAの世界にいたくないと思うことが少し増えた。
Aは交友関係が広く、私には想像もできない程遠くの人間とまで何かしらの関係があった。

別に私がいなくなった所でAの周りにはたくさん人がいるのだからというある種の甘えもあった。

 

稀に、客観的に「私がAより恵まれていた要素」があったとして、
それを全部Aに与えて死ぬことができたらとても嬉しいことなのにと思うことがあった。

私は大学生にもなると、あまり積極的に生きていきたいという気持ちもなくなっており、そんな風にうまく自分の命が使えたらこれほど便利なことはないのに、とできもしないことを思っていた。

 

Aが就活で忙しくなり、そこからいつの間にか数年会っていない。

これは私がLINEの何かの招待を無視したり、そのまま携帯を変えて招待の履歴そのものを消失させてしまったりしていることが原因であろう。
別に何かしらの手段で会おうと言えば、まあどうせ忙しいだろうがどこかで予定を合わせてくれると思う。
だからこそ私からAに連絡は取れない。恥ずかしくて合わせる顔が無いのだ。

 

でももしAの味方が他にいなくなったとしたら、Aの最後の味方になりたい。
かつて私はAから色んな楽しいことを教えてもらった恩がある。
そんな経験があるだけで私はとても幸運な人間なのだろうと思う。

 

 

と書いたが、詐欺で他人を陥れたり他人の妻を妊娠させて放置したりみたいなことをしたら流石に味方になるのは無理だ。
いくら恩があっても無理なもんは無理やくたばれカスということもあるのだ。

もうとっくに家庭を持っているかもしれないが、願わくば罪を犯さず、人をあまり泣かせずに生きていてほしい。

 

 

 

おわり