かもしれない運転

"いいね"から流れてきたツイートを見て、あるひとつの恐怖を思い出した。

 

 

これはきっと、多くの人にとって素敵で、好ましいことなのだ。だから"いいね"で私の所にまで流れてきたのだ。

 

だが、これは私にとって最も恐れていることのひとつだ。つまり、幸せを「教えられてしまって」、それによって、幸せと距離が離れた時に苦しみが発生する状態を避けたいと強く考えている。

 

収入が増える度によりよい家に住んだり、比較的高額の食事を楽しむようになったりする人は少なくない。だが、いかに優秀な人であっても、その収入が増え続ける保証はどこにもない。大きな病気をして突然働けなくなる、会社が倒産する、業界や国自体が終わってしまう等といった、個人には避けることができない問題によって収入が減る可能性はどこにでもある。

しかし、今まで上げてきた生活水準を下げることには一定の苦しみが生まれる。高い肉を食べ続けた結果「もうこんな肉は食べられないよ」と思っていた肉をまた食べなければならない。ゆったりとした広い住まいで寛いでいたのに、より狭く古い家に住まなければならない。一度上げたものを下げるということは、ただ上げるよりもつらく苦しい。

 

あまり積極的に動物を飼おうという気にならないのも、その恐怖がずっと付き纏うからだ。ペットがいる時は、可愛がってあげたり、癒されたり、世話をすることで絆が生まれたり、まあ多くは楽しい時間を過ごすことになるだろう。しかし大概の動物は人間より寿命が短く設定されている。こうして楽しい時間を過ごした結果、ペットが死ぬ。すると、飼い主はとても大きな苦しみを味わうことになる。なんなら、そのペットがだんだんと老いていくさまを見て終わりを感じ、まだ生きているペットを前にして寂しさをおぼえることもあるだろう。

私はそのような苦しみに自分が耐えられると思っていない。自分を信用していない。そもそもペットを飼わなければ苦しむこともないのだ。

 

何かの折に似たような釈明をすると「でも喜びも無いよ?」と言われることもあったが、無くていい。私にとっては、その喜びの上昇値より、将来的に約束された苦しみの下降値がどれくらいのものかという問題こそが重要だ。そして、大きな喜びには大きな苦しみがつきものである。

給食で出てきた好物はすぐに食べ終わってしまうのに、苦手な料理は噛むのが遅くなって、より長く舌の上にまとわりつき、不愉快な気持ちになったものだ。ほうれん草は、かつて私にとって最大の敵だった。喜びの記憶より、苦しみの記憶はより大きく、より長く自分の中に居座ってしまうことは、自分でもどうしようもないことなのだ。私は、10代までに得た非常に些細ないくつかの経験から、自分にとって幸せは危険なものなのだと学習した。そして、そういった幸せや苦しみが極力少ない状態を維持できていることがありがたく、「幸せ」なのだと考えるようになった。

 

たいていひとりで過ごしてきたのは、そもそも自分自身ひとりを好むからという所が大きい。しかし、人間に対して一定以上の関係を作らないように心掛けているのは、決して「自分は強い」と思っているからではない。その逆だ。ぼんやりと何も考えず過ごしていると、知らず知らずのうちに親しい間柄の人間ができてしまう。そういった「幸せ」が欲しい時に得られなかったら、失われてしまったら、一体どれだけの苦しみを味わうことになるだろう?そのような苦しみに自分が耐えられるわけがない。そうなるくらいなら、「ひとり」の状態をよりよいものにする方が、自分にとってはよほど現実的ではないか。

 

そこで、くだんのツイートを見た。その時、ここまで恐れ回避しているある種の「幸せ」が、何かのはずみでうっかり手に入ってしまった場合、将来苦しむにもかかわらず、自分は一時の幸せに甘え、楽しんでしまうことをやめられないのではないかと思った。軟弱な精神は、約束された苦しみに気付かないふりをして、その場が楽しければいいと思ってしまうのではないかと思わされた。

こんな「かもしれない」ことを考えて恐怖するなど無駄でしかない。だが少なくとも「うっかり違法薬物を口にしてしまい中毒者になる」可能性よりはあり得るだろうと思った。起こってから考えたのでは遅いことについては、かもしれない運転で考えるほかない。もっとも、私は「自分が注意していても飛び出した歩行者を避けきれず轢き殺してしまうかもしれない」ので、自動車免許を取ることもないが。

 

 

 

おわり