他者承認と鎮痛剤

自己肯定感が低く、しかもそのギャップを他者承認を得ることで賄っているタイプは、他人の言葉を鎮痛剤として消費しているように思われる。

 

こういった理由で元気が出ない、気分が落ち込む、そんな相手に接する機会は、人間と接している限り発生するものである。何かしらで苦しんでいる人が目の前にいるなら、まあ可能な範囲で助けて差し上げようということになるのは自然な流れだ。

私がその場に立ち会った場合、「話を聞くだけをする」を含めひとまず自分の考えられる限りの対応をする。力になれたらよし、なれなかったとして、私の対応が相手にとって不必要・不愉快なものだったとしたら、その相手は今後私に悩み相談をしないだろうと考えるからである。

 

そうしていると時々、私の脳裏に「暖簾に腕押し」「糠に釘」といった言葉が浮かぶことがある。こちらが考えて、言葉を尽くして、相手が「ありがとう」「元気が出た」といったようなリアクションをしてきたはずなのに、その後複数回にわたり同じような案件で悩み相談が入ってきた場合である。人がすぐ変わることは難しいとはいえ、事態は何かしら解決に向かわなかったのだろうか?目の前に問題があって悩みが発生するのだから、その問題について何も進展はなかったのだろうか?

 

そこからだんだんと、他人が言葉を尽くしたとしても、それが一時的な「鎮痛剤」にしかならないパターンもあるのではないかと考えるようになった。確かに痛みはおさまるかもしれない。しかしその場の痛みがおさまっているがために、根本的な解決に向けて積極的に動く必要もなくなり、気づくと同様の事案によって自己肯定感を地に落としてしまうのだ。

 

毎度こちらが真正面から向き合っても、結局何もよくならず、ただただこちらのスタミナが消費されている。RPGで出現する再生機能を持つ敵のそれである。普通に攻撃しても後から何もなかったかのように再生する敵。このままではこちらがもたない―――

この場合何ができるかというと、何も考えずに「つらかったね」「そのままのあなたでいい」「あなたがどうなっても私はあなたが大好き」等の言葉を返しておくことである。そうすればお互いにその場は凌げる。毎回手の込んだ料理を出している余裕がないなら、インスタント料理で済ませてしまえばいい。ただ、「どうなっても大好き」「ずっと大好き」といったような言葉はまったくおすすめできない。これは後々になって自分の首を絞めることになるからだ。

 

どうして何度も何度も同じ事由で思い悩んでしまうのに、その対策をしないのだろう?思い悩んでいつづけたいのだろうか?思い悩んでいるポーズを取ることで、優しい言葉が得られると学習しているのだろうか?

それは本人だけのせいではなく、周囲の人間がホイホイと鎮痛剤を与えてしまっているからなのではないか?

 

その場その場で鎮痛薬を利用する癖がついてしまうと、なかなか病院に行こうということにはならない。だが病の原因はずっとそこにあり続けるし、なんなら時間経過で悪化している。しかも自己肯定感をどうにかできるのは自分だけだ。医者も薬もない。自分で解決するしかない。それを邪魔しているのは、いま私が口にした慰めの言葉なのかもしれないのだ。

 

本当に相手のためを思うなら、優しい慰めの言葉が逆効果になるかもしれないことを考慮する必要がある。「良薬は口に苦し」いう言葉もある。とは言っても、これは飲む側だけの話ではない。薬を吐き出す側も口の中が胃液の味になっている。

 

インスタントで済ませれば罪悪感、手間をかければ無力感、何もしなければ相手からの失望、いまなら選べるクソ択3種類!もう全人類自分のゴミカスな所をありのままゴミカスと認めてくれないか?自分に対して過度に期待するのやめないか?いっそ人類から自己肯定感とかいう感覚が消えてくれればいいのだが―――

そんなことを思いながら、私は今日も業務時間の半分を睡眠に費やし、酒を飲み肉を食べLINEを未読無視し、配信を観てヘラヘラ笑っている。ゴミカスが開き直ってこういう状態になるのも、それはそれで望ましくはない。

 

 

 

おわり