買ってよかったもの

除外:酒・ゲーム

  • 食器洗い乾燥機
  • らくハピ エアコン洗浄スプレー
  • ワイドハイター クリアヒーロー
  • KANEBO スクラビング マッド ウォッシュ
  • ラタンスティック

 

食器洗い乾燥機(任意のメーカー)

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一人暮らしを始めたら真っ先に買え、とかつての自分に伝えたい。

皿洗いという工程が無くなるだけでクソ羽虫は減り、皿が色々使いやすくなって自炊で細々した機器が必要なレシピも苦にならなくなった。一人暮らしの一食分ではまだ洗うには皿が少ないなと思っても、とりあえず庫内にセッティングしておけば場所を取ることはない。とはいえ、食洗機自体が割とデカいため相応の覚悟は必要である。私はクソ狭いビジネスホテルくらいのサイズ感の部屋と玄関の間にある通路にコイツを配置しているため、玄関に行くためにわざわざ一度カニ歩きを強いられている。まあ玄関に行くシーンなんてほとんどないから支障はない。

もちろん、ズボラな人間でなくても更なる効率化を求めて買うのはまったく無駄ではない。

 

エアコン洗浄スプレー

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エアコンから明らかにカビ臭え風が流れてくるが、表層の掃除だけでは届かない、しかし業者を部屋に呼ぶことができない... そのようなお困り人間に対応した商品。

なんかスプレーを内部に向かってシューすることによって内部の問題が解決し、流れてくる風が無臭になる謎の代物である。もっと早く出会いたかった。

 

ワイドハイター クリアヒーロー

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デブになってから特に酷使している白いスウェットがあるのだが、私は愚かなのでコーヒーやワインをよく溢している。そのシミをこいつは亡き者にしてくれた。せっけんであれこれしても落ちなかった汚れがどのようにして解消されたのかは謎だが、彼がヒーローであることは確かだった。

 

KANEBO スクラビング マッド ウォッシュ

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学生時代から悩まされていた鼻のザラつきが消失した。

かつては思春期特有の肌あれもあり、スクラブ洗顔料や、鼻角栓全殺しパックのようなものも使用していた。しかし結局角栓全殺しパックは潤いも全殺ししてしまう。かといって潤したら潤したで調子に乗った角栓が出てきてしまうという惨状だった。どうして顔面の中心にあるパーツが一番汚えんだ?

何かの折にTwitterでこの洗顔料が出てきたので試しに買って使用してみた所、過去に試したスクラブ洗顔やパックで解決しなかった鼻(+顔面全体)のザラつきが解決した。散々痛めつけてきた鼻の黒ずみもある程度どうにかなった。これにはかなり驚いた。私の場合は、シャワーを浴びる前に濡れていない状態でこれで顔面を軽く擦って、シャワーに入って洗い流す。その後全身を洗って風呂を出る前に別の洗顔料で洗って出る。これでなんとかなっている。

美容専門アカウントは毎日違う化粧品で感動してるじゃねえか、という気持ちはあったが、偶然見かけたツイートに運よく救われたので巡りあわせもある時にはあるなと感じた。ただ、私が知っているということは、この洗顔料の効能は全人類が知っているに等しいと思われたため、特に誰に話すこともなく日々を送ってきた。

 

ラタンスティック

アロマ的な瓶に刺さってそうな棒。これを買って、長いこと使わず古くなってしまった香水に刺すことで第二の人生をやってもらっている。

 

 

 

おわり

指示厨と分かれ道

自分で考えて決断した選択肢に後悔は少ない。

自分の場合、これは「自分の決断が失敗ではなかった」と思えるように、時には意地になって行動しているからだ。

 

そう考えているから、他人が下した決断にも敬意を払って尊重したい。

しかし中々そう思えない時もある。明らかに自分から見て「不正解」だと考えられる選択をしている人を見た場合だ。この人はみずから進んで、これから失敗をしに行こうとしている。その先には低くない確率で落とし穴がある。無かったら御の字なのだ、それなのになぜその道を行くのか?

こうして思わず口出しをしてしまう野暮な自分を止められなかった時、本当に歳を取ったなと思う。自分の経験から予測される不利益を他者に被ってほしくない、その一心で助言者を演じながら、実際はただの指示厨と化している自分がわかるからだ。もう本当に鬱陶しい両親のソレと同じなのだ。人の親でもないくせに、このような振舞いをする自分が心底情けない。

 

そもそも、私自身が指図を好まない子供だった。散々行儀よくしろと教育されたが、上っ面の取り繕い方だけ覚えた後は言葉遣いも行儀もないような状態になり、一人暮らしを始めてからはさらに悪化している。中学生以降は学校にもロクに行かなくなった。母校の治安によるものか中学生特有のものか不明だが、いじめる人間といじめられる人間が定期的にローテする状況が自分にとってあまりにも理解不能だったという点が大きい。加えて、部活に1年生という後輩が入ってきて、後輩は良い人間だったが「後輩に先輩ヅラしなければならない」イベントが頻発して苦痛になった。このため、自分は直接いじめてもいじめられてもいないのに登校が本当にダルくなりネトゲINに落ち着いた。そこからある程度の段階になると両親も学習して私にあれこれ言わなくなった。

「あなたの思うようにしなさい」。両親の就業モデルが自分に合致しているとは到底思えなかったため、進学先も就職先も似ても似つかない所に決まった。身近な人間に進路を相談することもあったが、それは自分の中でほとんど決まったことについて確認を取る時だった。もっとも、相談話なんて誰しも自分の中で答えが決まっている状態で行うものなのかもしれない。

 

自分で考えて決断した選択だから後悔は少ない。とは言っても、結局客観的に見ればほとんど失敗だ。大学で入ったサークルでは、すぐ引退してしまう先輩と仲良くなるプレミをした。先輩連中が抜けた後は、常にMacBookをチラつかせて時折自分の作ったインディーライブのポスターを見せてくるリーダー気取りの奴が学年長になるとの噂を聞いて、非常に不愉快だったためそのまま幽霊部員となってしまった。

新入社員として入社した会社では、右も左も何もかもわからずにいたが、酒が好きだったのが高じて上司や他部署の謎の人間達との繋がりができなんとかやっていた。職場は面白かったが、上司のオッサンを裏で誹る先輩のゴミっぷり(と多忙)に精神が疲弊して辞めてしまった。

 

何やら思い返せば失敗ばかりだ。これをしてよかったな、と思えることなんて、日常の些細な一瞬にしかなくて、節目となる所で成功しているのかと言えばまったくそんなことはない。だからこそ、他人の決断に口出しをしたくなってしまうのだろうか?あなたにはそんな風になってほしくない。あなたならもっといい思いをできるはず。マジでいい迷惑である。

自分の成し得なかったことを自分の子供に達成させようという親は、いる所にはいるらしいと聞く。自分の遺伝子から生産された子供にそれをさせようというのは非常におこがましいことだ。だが、自分の犯した失敗を子供にはさせたくないという気持ちは、今なら理解できるかもしれない。メインストーリーも主人公のステータスも何もかもが違うのに、なぜか「人生」という同じゲームをしているのではないかと錯覚してしまう。そして、自分が選んだ失敗のルートを知っているがために、次の者にはそれをさせたくないと思ってしまう。このルートは自分が選んだから失敗だったのであって、彼にとっては次のマップに進むための必須フラグかもしれないのに?

 

本当にその人を心配したいなら、その選択肢に進むのを黙って見送った上で、何か問題があった時に助けてあげるのが理想なのだろう。だが私自身、その相手に対してそこまで気合を入れて責任を負うことができない。その人は私の肉親でも友人でも恋人でもない、ただの知人だからだ。

 

こちらの発言に対してあまり手ごたえが無かったと感じる時、自分がそれなりのジジイだのババアだったりすれば多少は意見が通ったのだろうかと思うこともあるが、これがもう指示厨の発想である。自分の人生を自分の好きなようにするのはいいが、他人の人生まで自分の好きなようにしようとするのは越権行為だ。「他人」は大人しくウンコして寝ていろ。私がかつて他人にそれを願ったように。

 

 

 

おわり

かもしれない運転

"いいね"から流れてきたツイートを見て、あるひとつの恐怖を思い出した。

 

 

これはきっと、多くの人にとって素敵で、好ましいことなのだ。だから"いいね"で私の所にまで流れてきたのだ。

 

だが、これは私にとって最も恐れていることのひとつだ。つまり、幸せを「教えられてしまって」、それによって、幸せと距離が離れた時に苦しみが発生する状態を避けたいと強く考えている。

 

収入が増える度によりよい家に住んだり、比較的高額の食事を楽しむようになったりする人は少なくない。だが、いかに優秀な人であっても、その収入が増え続ける保証はどこにもない。大きな病気をして突然働けなくなる、会社が倒産する、業界や国自体が終わってしまう等といった、個人には避けることができない問題によって収入が減る可能性はどこにでもある。

しかし、今まで上げてきた生活水準を下げることには一定の苦しみが生まれる。高い肉を食べ続けた結果「もうこんな肉は食べられないよ」と思っていた肉をまた食べなければならない。ゆったりとした広い住まいで寛いでいたのに、より狭く古い家に住まなければならない。一度上げたものを下げるということは、ただ上げるよりもつらく苦しい。

 

あまり積極的に動物を飼おうという気にならないのも、その恐怖がずっと付き纏うからだ。ペットがいる時は、可愛がってあげたり、癒されたり、世話をすることで絆が生まれたり、まあ多くは楽しい時間を過ごすことになるだろう。しかし大概の動物は人間より寿命が短く設定されている。こうして楽しい時間を過ごした結果、ペットが死ぬ。すると、飼い主はとても大きな苦しみを味わうことになる。なんなら、そのペットがだんだんと老いていくさまを見て終わりを感じ、まだ生きているペットを前にして寂しさをおぼえることもあるだろう。

私はそのような苦しみに自分が耐えられると思っていない。自分を信用していない。そもそもペットを飼わなければ苦しむこともないのだ。

 

何かの折に似たような釈明をすると「でも喜びも無いよ?」と言われることもあったが、無くていい。私にとっては、その喜びの上昇値より、将来的に約束された苦しみの下降値がどれくらいのものかという問題こそが重要だ。そして、大きな喜びには大きな苦しみがつきものである。

給食で出てきた好物はすぐに食べ終わってしまうのに、苦手な料理は噛むのが遅くなって、より長く舌の上にまとわりつき、不愉快な気持ちになったものだ。ほうれん草は、かつて私にとって最大の敵だった。喜びの記憶より、苦しみの記憶はより大きく、より長く自分の中に居座ってしまうことは、自分でもどうしようもないことなのだ。私は、10代までに得た非常に些細ないくつかの経験から、自分にとって幸せは危険なものなのだと学習した。そして、そういった幸せや苦しみが極力少ない状態を維持できていることがありがたく、「幸せ」なのだと考えるようになった。

 

たいていひとりで過ごしてきたのは、そもそも自分自身ひとりを好むからという所が大きい。しかし、人間に対して一定以上の関係を作らないように心掛けているのは、決して「自分は強い」と思っているからではない。その逆だ。ぼんやりと何も考えず過ごしていると、知らず知らずのうちに親しい間柄の人間ができてしまう。そういった「幸せ」が欲しい時に得られなかったら、失われてしまったら、一体どれだけの苦しみを味わうことになるだろう?そのような苦しみに自分が耐えられるわけがない。そうなるくらいなら、「ひとり」の状態をよりよいものにする方が、自分にとってはよほど現実的ではないか。

 

そこで、くだんのツイートを見た。その時、ここまで恐れ回避しているある種の「幸せ」が、何かのはずみでうっかり手に入ってしまった場合、将来苦しむにもかかわらず、自分は一時の幸せに甘え、楽しんでしまうことをやめられないのではないかと思った。軟弱な精神は、約束された苦しみに気付かないふりをして、その場が楽しければいいと思ってしまうのではないかと思わされた。

こんな「かもしれない」ことを考えて恐怖するなど無駄でしかない。だが少なくとも「うっかり違法薬物を口にしてしまい中毒者になる」可能性よりはあり得るだろうと思った。起こってから考えたのでは遅いことについては、かもしれない運転で考えるほかない。もっとも、私は「自分が注意していても飛び出した歩行者を避けきれず轢き殺してしまうかもしれない」ので、自動車免許を取ることもないが。

 

 

 

おわり

強風と自転車

潜在的なものも含め、自分にとっての敵はなるべく視界の中に入れておきたい」という気持ちがある。

 

敵が見えなくなってしまうと、今敵がどこにいるのかがわからなくなってしまうからである。目をつぶってしまうことは簡単だが、敵との距離を保つことができなくなる。最近見ていなかったアイツがいつの間にか近くにいた、なんてことになってしまっては厄介だ。

そして、敵というのは人間のことだ。人間そのもののこともあるし、ある人間の行動によって発生する私にとってのリスクや不利益ということもある。たいていの人は悪人ではないと思う。しかし悪人ではない人が時々悪意を持って行動することはあるし、悪人ではない人がよかれと思って実行したものが他人にとって害となることもある。それらを含め、とりあえず自分にとって不都合そうなものは監視対象にすることで自分を守ってきた。

 

色々な人間がいる。

 

・要望があるのに直接言わず毎度相手に気付かせる形で表明する者

・自分から縁を切ってきたはいいが切り方がヘタクソで中途半端にしか切れていない者

・いつまでも同じ問題で周りを心配させ慰めを得ようとするが問題の対処はしない者

・自分の知識をひけらかすためにクイズ形式の話を振り、即座に正解されると不機嫌になる者

・私に会えず寂しいと連絡を寄越す者

・正常な判断ができない精神状態の人間と契約をする者

・ひとりでいるなら寂しいに違いないと判断する者

・短期間の付き合いでしかなかった私の体調を心配してくる者

・声をかけてもらうのをいつまでも待っている者

・何度も音声通話にしろと伝えても履歴の残る文面でパートナーの愚痴を伝えてくる者

・自分自身の問題を年下の人間に甘え背負わせようとする者

・翌日に重要な用事があるのに夜更かしをして遅刻する者

・自分が不機嫌であることを隠さず周りに気を遣わせる者

エスカレーターを降りた所で立ち止まる者

・いい年こいてくだらない意地悪をする者

・まだ「Aが発生した」という情報しかないのに、勝手に原因を妄想してその対象を強く非難する者

・裏アカウントで呪詛を吐き続ける者

・生きていてくれただけでよかったと言ってくる者

・華やかな様子を自分から見せているのに本当は苦しいと訴える者

 

・それらに対して、とくに何もすることができない自分

 

潜在的なものも含め、自分にとっての敵はなるべく視界の中に入れておきたい」、そんなことをしていると、傍から見ていて「きっとロクな結果にならないだろう」と思われる事象が転がっている。

 

たとえば、とても強い風が吹いている日に支えのない所で自転車を止めている人を見た時のような、たとえば、飲み会の後に飲酒運転をしようとする者の車にみんなが乗り込んでいくのを見た時のような、たとえば、足の悪い動物が道路のど真ん中を横断している所にトラックが近づくのを見た時のような、そんな感覚になるような事象だ。

その結果が案の定悪い形であらわれた時、なんとも言えない感情になる。私はその問題に対処することはできない。権利や能力はない。真に無関係者なのである。

 

「相手を自分のことのように考えて強く共感しているからつらい」ということではない。その人の問題はその人の問題なのであって、私に許可されているのは見ることだけである。しかしなぜか無力感、脱力感に似た感覚があるのだ。

2022年は何がどうしたのか世界がかなり張り切っていて、そんな事象が例年より多い。今までのような監視塔暮らしをやめてしまって、いつ敵が来るか怯え続けながら目と耳を塞ぎ森の奥地で暮らしてえ...そんな甘えた発想が自分の中に出現した。実際の体力は「〇km走れたか」みたいな所で計測できるのに、精神的体力の計測方法が無いのは困ったものだ。技術は進歩しているのだから、自分のMP最大値と現在値が数値でわかる機械があってもいいではないか。ただ、もしそんな製品が出たとしても、自分はその性能を疑って購入に至らないんだろうな...と思ったら馬鹿すぎてあほらしくなったので、今日も寝汗でくせえから風呂入って飯を食う。

 

 

 

おわり

他者承認と鎮痛剤

自己肯定感が低く、しかもそのギャップを他者承認を得ることで賄っているタイプは、他人の言葉を鎮痛剤として消費しているように思われる。

 

こういった理由で元気が出ない、気分が落ち込む、そんな相手に接する機会は、人間と接している限り発生するものである。何かしらで苦しんでいる人が目の前にいるなら、まあ可能な範囲で助けて差し上げようということになるのは自然な流れだ。

私がその場に立ち会った場合、「話を聞くだけをする」を含めひとまず自分の考えられる限りの対応をする。力になれたらよし、なれなかったとして、私の対応が相手にとって不必要・不愉快なものだったとしたら、その相手は今後私に悩み相談をしないだろうと考えるからである。

 

そうしていると時々、私の脳裏に「暖簾に腕押し」「糠に釘」といった言葉が浮かぶことがある。こちらが考えて、言葉を尽くして、相手が「ありがとう」「元気が出た」といったようなリアクションをしてきたはずなのに、その後複数回にわたり同じような案件で悩み相談が入ってきた場合である。人がすぐ変わることは難しいとはいえ、事態は何かしら解決に向かわなかったのだろうか?目の前に問題があって悩みが発生するのだから、その問題について何も進展はなかったのだろうか?

 

そこからだんだんと、他人が言葉を尽くしたとしても、それが一時的な「鎮痛剤」にしかならないパターンもあるのではないかと考えるようになった。確かに痛みはおさまるかもしれない。しかしその場の痛みがおさまっているがために、根本的な解決に向けて積極的に動く必要もなくなり、気づくと同様の事案によって自己肯定感を地に落としてしまうのだ。

 

毎度こちらが真正面から向き合っても、結局何もよくならず、ただただこちらのスタミナが消費されている。RPGで出現する再生機能を持つ敵のそれである。普通に攻撃しても後から何もなかったかのように再生する敵。このままではこちらがもたない―――

この場合何ができるかというと、何も考えずに「つらかったね」「そのままのあなたでいい」「あなたがどうなっても私はあなたが大好き」等の言葉を返しておくことである。そうすればお互いにその場は凌げる。毎回手の込んだ料理を出している余裕がないなら、インスタント料理で済ませてしまえばいい。ただ、「どうなっても大好き」「ずっと大好き」といったような言葉はまったくおすすめできない。これは後々になって自分の首を絞めることになるからだ。

 

どうして何度も何度も同じ事由で思い悩んでしまうのに、その対策をしないのだろう?思い悩んでいつづけたいのだろうか?思い悩んでいるポーズを取ることで、優しい言葉が得られると学習しているのだろうか?

それは本人だけのせいではなく、周囲の人間がホイホイと鎮痛剤を与えてしまっているからなのではないか?

 

その場その場で鎮痛薬を利用する癖がついてしまうと、なかなか病院に行こうということにはならない。だが病の原因はずっとそこにあり続けるし、なんなら時間経過で悪化している。しかも自己肯定感をどうにかできるのは自分だけだ。医者も薬もない。自分で解決するしかない。それを邪魔しているのは、いま私が口にした慰めの言葉なのかもしれないのだ。

 

本当に相手のためを思うなら、優しい慰めの言葉が逆効果になるかもしれないことを考慮する必要がある。「良薬は口に苦し」いう言葉もある。とは言っても、これは飲む側だけの話ではない。薬を吐き出す側も口の中が胃液の味になっている。

 

インスタントで済ませれば罪悪感、手間をかければ無力感、何もしなければ相手からの失望、いまなら選べるクソ択3種類!もう全人類自分のゴミカスな所をありのままゴミカスと認めてくれないか?自分に対して過度に期待するのやめないか?いっそ人類から自己肯定感とかいう感覚が消えてくれればいいのだが―――

そんなことを思いながら、私は今日も業務時間の半分を睡眠に費やし、酒を飲み肉を食べLINEを未読無視し、配信を観てヘラヘラ笑っている。ゴミカスが開き直ってこういう状態になるのも、それはそれで望ましくはない。

 

 

 

おわり

要:理解ある彼くん

悩み相談に上手に対応できない。

 

「○○が嫌」「○○がつらい」「死にたい」みたいなことを言われた時、たいていの場合で適切な返答は「よしよし」「うんうん」「大変だったね😟」となっている。

 

私がここに至るまでには数々の質問と回答が必要である。

・どうして?

・どのような問題がある?

・そこであなたは何をした?

・(何もしなかった場合)なぜ何もしないのか?

・(何かした場合)結果はどうだったのか?なぜそうしようと思ったのか?

・他に対策はあるのか?

・○○は試したか?

・私にできること、してほしいことはあるか?

等のやりとりを経て「大変だったね😟」という言葉が出てくる。もはや面接である。何かを言われて即「大変だったね😟」と言ってしまうのは、むしろ不誠実だとすら感じる。何が大変だったのかを知らないのに、適当なことを言って相手を宥めようとしていると思うからだ。相手をまだ小さな子供と同じように扱うのと同じで、それは不当なことだと思う。

また、色々聞いているのは「その程度で被害者面してるのかよ」という意味ではない。人によって何を大変に感じるのかは違っているし、感じ方が違うからこそ、理解の手がかりを得るため議論...説明が必要なのだ。「生理的に無理だから」でもいい。生理的に無理なものは無理だ。「今ちょっと余裕ないから話しかけないで」これも助かる。

 

反対に、ただ何かについて「嫌」「つらい」と言う人が「なぜかは言えない」と言ってきた場合には混乱する。自分にしかわからない苦しみや痛みをただ他人にぶつけるだけの行為だと感じてしまう。赤ちゃんが泣いている場面に遭遇して、でも何が原因で泣いているのかわからねえ~となっているかのような気持ちになる。相手が絶対に解けない問題を提出し、しかも「不快」の態度を取って待つのはとても自分勝手なことだと感じてしまう。できることがない相手に対してただ心配の種だけを植え付け、事態は何も好転しない。全体としてマイナスにしかなっていないと思ってしまうのだ。「他人にわかるわけない」なんてmixiに書かれた日にはすべて終わりである。

この点で昔「ただ話を聞いてほしいだけだから聞いて」と母から明確に言われたことがある。私のスタンスは「相手の状況の理解」「状況打開のための行動を会話から模索」だったので嫌気がさしたのだろう。そこで初めて、過去の相談相手から薄々感じていた「今欲しかったのこれじゃねえんだよな」オーラの原因が判明したのである。

 

極端な話、「死にたい」と言われた後にロクな追加情報が出てこないと「それなら死んだら?」と言いそうになる。私も何回か自殺を検討したことがあるし、自殺は悪!殺人行為!等といった考えは持っていない(自殺に至らしめた過程を憂うことはある)。また、他人の命をどうこうする権利は私にはないため、「死なないで」と勝手な要求をすることはできない。その要求をするなら、それ相応の対価や保障を提案する必要があるのだ。可能なのは「死なないでほしいなあ~~できれば!私は悲しいな!」までであって、「死ぬな」はダメだ。生きろというギアスをかけられた某氏が壮絶な経験をしているのを見ると余計にそう思う。

ただそのような考えはさておき「それなら死んだら?」が不適切な返答だということは明らかで、また過去の蓄積から「あえて他人に『死にたい』と言う人の多くは『死にたいくらいにきつい状態』なのであって根本的に『死にたい』とは思っていない」ことを知っている。しかし軽率に「大変だったね😟」と言うのも不誠実―――その結果、相手の訴えに対し「......そうか.....................」しか言えなくなる。これでめでたくクソ会話の完成である。

 

何かおかしい。自分で相手のことを考えて導き出した答えが完全に間違っている。

 

「○○が嫌」「○○がつらい」「死にたい」みたいなことを言われた時、たいていの場合で適切な返答は「よしよし」「うんうん」「大変だったね😟」なのだ。私は間違っていた。この問題は算数だったのだ。1+1が2であるように、答えが決まっているものだったのだ。いつもお世話になっております。お世話になったどころか会ったことすらねえ相手に謎の言葉を送るのと同じだ。これがわかって以来、気づいた時には余計なことを言わず、相手の言葉に対して「大変だったね」と出力できるようになった。

 

「大変だったね😐」(あ~~~すいません思考停止しているわけではないんですけども私から言って差し上げられることがもう無くて~~~てかなんでこの人今こうなってんの?そういう状況ならあれは調べてみたかな?ああ~~~違うんです大変だったね!うわあああ~~~~~~)

これでいいのだ。

 

ネット上で散見される理解ある彼くんは、いかにして相手を理解しているんだろう。理解ある彼くんは本当に相手のことを理解できているんだろうか。理解できているなら、その方法を教えてほしい。どなたかこの中に理解ある彼くんはいらっしゃいませんか?理解ある彼くんが理解ある彼くんを自称するとかなり気色悪いが、理解教本を出したらそこそこ売れると思う。少なくとも私が1冊買う。

 

 

 

おわり

社会的脱糞

軽率に感情的な態度を示すことは愚かな行為だ。

この考えが、気づいた時にはもう自分の中にあった。

 

これは、学校や家庭内で他人を眺めているうちに自然と身についてしまった結論だと思われる。感情的になると誤った決定をしてしまうリスクが高くなる。特に「怒る」というのがよくない。職場で人に怒るということがいかにマイナスな結果を生むのかという話は、メディアや職場研修等で耳にすると思う。

 

私は現在リモートワークで作業をしているが、やりとりをする関係者の中でひとり「すぐキレるので注意」と周知されている人がいる。

その人はメールの文面でも「私は今怒っています!!!!」という感情を丸出しにしてくる。ここまでの人はなかなか見たことがなく、傍から見ていてかなり面食らったのを覚えている。しかも原因がその人の勘違いだったり確認不足だったりするので、返信の文面も気を遣う必要がある。ここで既に余計なコストが生まれている。また、もし他人の知識不足、誤認で発生した問題なら、それを教えてあげればいい。自分と同じ知識がある体で話されても、入社数十年の人間に敵うとは到底思えないからである。

 

怒ることは、その人自身の判断を鈍らせるだけでなく、他者の怒りを誘発し、また他者を委縮させて思考や行動に制限をかけてしまう。怒るより先にまず、なぜ現状がこうなっているのかを考えないと現状が変わらないし、将来的に自分を怒らせる状況を減らすこともできない。感情の発生自体は仕方のないことだが、それを発露する前にやることはいくらでもあるはずだ。

 

ここで最悪なのは、日常的な私の態度が他人から「怒っている」ように見えていることである。

二十数年生きてきて、ただ喋っているだけなのに「怒ってる?」と何度言われたかわからない。それは後から振り返れば「人によれば怒ってもおかしくなさそうな状況」な場合もあるが、「まったく怒るタイミングではない状況」の場合も少なくない。後者では「なんで怒ってるの?」と相手は聞いてくるが、そもそもこちらは怒っていないので「なんで怒ってると思ったの?」という状態になり、ただただ場の空気が不味くなっていくことになる。

 

10代の頃は、「怒ってる?」という言葉を「何カッカしちゃってんの?笑」という意味に変換していたので、

 私「縺翫?繧医≧縺斐*縺?∪縺吶?よ怙霑大?螳峨d縺ー縺上↑縺?▲縺吶°?」

 相手「え、怒ってる?」

 私(は?)←ここで怒り始める

となることが多かった。

 

いや、もしかしたら本当に「何カッカしちゃってんの?笑」という意味だったかもしれない。私の内心がどうであれ、コミュニケーションは相手がどう受け取ったかに依存しているので落ち度はこちらにある。今でこそ「まただよ」と思うだけだが、当時は若く「何を勘違いしてんだテメーは」という気持ちでいた。

過去、学校生活で私と親しくなった数少ない友人がことごとく強引な陽キャ傾向であるのも、私の態度を怒っていると思わない、あるいは怒っていたとしても考慮していなかったからだろう。意識的な笑顔、にこやかな態度を心がけるようにしたこともあったが、それは私にとって別人格を作り出すことに等しく、気づかないうちにかなりの精神的負荷がかかっていたので諦めざるをえなかった。

 

私は「段階を踏まずに初手で怒るのは感情が制御できていない」「基本的に怒っても結果はゼロかマイナスにしかならない」「他人に対して怒りの態度を示していい権利が十分にあってはじめて怒ることを許される」等の偏った思想を持っていて、それに縛られているため相手に怒ることは滅多にない。

ということを相手は知らない。

 

ここ最近、色々なシーンで「怒ってる」判定を受けることがいくつかあって、いささか自分にうんざりしてきた。もし自分が作った不味い空気を1万円でチャラにできるなら喜んで支払いたいと思った。成人してしばらく経っているのに、自分が出したクソの処理もできないとはなんと情けないことだろうか。試しに目の前の仕事用PCに向かって笑いかけてみたが、不気味に引き攣った口角を上げただけの顔が黒い画面に映っただけだった。

 

仕事しろよ

 

 

 

おわり